ずっと目を背けてきたことがある。 ずっとひた隠しにしてきたことがある。 ずっと気付かない振りをしていたことがある。 君を守ると、あの夜そう決めたのに ずっとずっと 逃げていた想いが、ある。 □■□ 「………」 ふわりとそよぐ風に、湯気がとけていく。 夜は、静かだ。 耳に届くのは、さやさやと葉の擦れる音ぐらい。 は、湯の中で膝を抱えた。 ぽちゃん、と湯船に波紋が広がる。 今はもう夜中だ。 風呂から出た葉の呼びかけを、寝たふりをしてやり過ごしてしまった。 本当は、眠れるわけがなかったのに。 もう今頃は、みんな、寝ているだろう。 流石に湯船の中では包帯は取ってあった。首元は―――服を脱ぐときも、敢えて鏡は見ないようにしていた。 それでも、やはり思い出してしまう。 あのときの、息苦しさ。恐怖。 そして――― 「っ…」 目を閉じる。 それでも脳裏に焼き付いて離れない―――リゼルグの、表情。 ちがう。わたし、敵じゃないよ。裏切ってなんか、いないんだよ。 そう言いたかった。 でも。 言葉が―――出なかった。 ただ、ちがうと繰り返すばかりで。敵の言葉を、拙く打ち消そうとするばかりで。 拒絶して、失って。 そうしてこれ以上なくすものなんてないと思っていた。 でも。 (葉や、ホロホロや、竜さんも…わたしを、疑ってるの、かな) ――――蓮も。 ぎゅっと拳を握る。 違うのに。 わたしは―――ハオのこと、すきじゃないのに。 こんなことなら、 (…こんなことなら………先にみんなに相談しておけば、良かった…) あの夢の事。記憶の事。千年前のこと。 自分から話しておけば、少しは―――何かが変わっていたかもしれないのに。 でも、もう、遅いのだ。 「……ッ…」 は、ますます膝を抱え込んで、小さくなった。 暖かな湯の中にいる筈なのに―――ずっと、胸の奥が寒くて。 怖かった。 みんなに疑われているかもしれないことが、 信じてもらえていないかもしれないことが、どうしようもなく、怖かった。 そのきつく閉じた目尻から、小さな雫が零れ落ちた。 「ったく何なのよ、どいつもこいつも!」 『………』 隣でいきり立つパートナーを横目に、加奈江はひっそりとため息をついた。 彼女と加奈江の付き合いは長い。加奈江自身は死してからの付き合いとなる訳だが、それでもお互いに目標への意識の齟齬が生じた場合さっさと別れていただろうから、こうしてシャーマンファイトに参加して共にここまで勝ち抜いて来れたのもやはり、根本的に馬が合っていたからに違いない。 つまりは、彼女の獲物を罠にかけ追い詰め仕留めることへの拘りも、加奈江にしてみれば別段角を立てることでもなく、パートナーであるチルダが是と言うのであれば従うまでのことだった。美学なんて人それぞれ。 問題は、相手側がそれに全くと言っていいほど引っ掛からないということだ。 チルダは相手の心が読める。 ―――とは言っても別にそれは超能力とかそういうものではなく、彼女のは読心術というれっきとした技術の一つである。 けれども相手側はそういう事情を知らない。知らないから大抵はすんなり罠に嵌ってくれるし、だからこそチルダと加奈江はここまで進んでこれたのだ。もちろん、二人の戦闘能力の高さもあるけれど。 (今回は相手が悪いのかも…) 「大体、ルームサービスっつってんのに刃を向けるなんて、あのガキ一体どんな教育を受けてきたのよ!」 チルダが吠える。 ルームサービス以前に、あんな時間に部屋を覗き込んでいた此方の方が何を言われても仕方がないだなんて、加奈江は言わない。思っても言わない。 『………あ』 「…何よ」 『あれ』 と、加奈江の指差す方向には――――少女がひとり。 風呂上りなのか髪が濡れており、浴衣を着て、浴場と本館を繋ぐ渡り廊下をとぼとぼと歩いている。 間違いない。 チルダ達が狙っている一行の、メンバーの一人だ。 オラクルベルは確認できなかったが、それでも彼らの仲間には違いない。 彼女のほかには誰も見当たらなかった。 「…ラッキー。あの子、何だか精神的に参ってるみたいだから、引っ掛けやすそうだとは思ってたのよね」 『行くの?』 「当たり前でしょ!」 立ち直ったチルダが意気揚々と少女の後を追う。 そのあとをゆっくりとついていきながら――― 加奈江はどこか釈然としない面持ちでいた。 確かに、あっさりと引っかかってくれそうな気は、した。 だけど。 だけど何か――――危うさのようなものを、加奈江は少女に感じていた。 汗ばんだ肌を、夜気が優しく包み込む。 首元を軽く拭うと、鍛錬を終えた蓮は、息を整えながら馬孫刀を折り畳んだ。 上着は脱いでいたが、上がった体温はすぐには元通りにならなかった。喉も乾いた。無性に冷たい牛乳が欲しくなる。 せっかく温泉地に来ているのだから、一風呂浴びてから眠ろうか。 そう思い、蓮は身支度を整え、大浴場のある方へと歩き出した。 木立の間から、虫の音だけが聞こえる夜の気配。 ―――その筈だったのだが。 (…さっきのは、何だったんだ) つい先ほどのことを思い返す。 外の林の中で素振りをしていたところ――― ちょうど蓮の部屋にあたる窓を、覗き込んでいる女の二人組を見つけたのだ。 訂正。生きた人間が一人と、死んだ人間が一人である。 しかも、生きた方の腕にはオラクルベル。 ―――シャーマンファイトの参加者と、その持ち霊であることは明白だった。 もともと、気分を晴らすために始めた鍛錬だった。 『も、蓮も。―――今のお前らは、どっちも全然、楽そうな顔じゃない』 葉のその台詞に、何も返せなかった。 ろくに答えられぬまま―――蓮はやがてその場を立ち去った。まるで逃げるように。 ただ、胸の奥だけがじりじりと疼いて。 そうして向かった先が、この林の中だった。 本館の裏口から出て、自分の部屋の窓からもすぐ近いこの場所で、蓮は不透明な感情を打ち消すように、ただひたすら馬孫刀を振るった。 ―――そこへ現れたのが、その珍妙な客だったのだ。 蓮のイライラが一気に増した。 『…素振りにも飽きた所だ。そこで的になれ』 最初はハオの仲間なのかと思った。 そう思って挑発するように刃を向けてみれば――――なんと向こうはさっさと逃げ出してしまったのである。 ハオの命令でここへ来たのであれば、あれぐらいの脅しで逃げる筈もないので、単なる参加者潰しのシャーマンの一人なのだとはわかったが… 何とも拍子抜けだった。 (…他の奴のところへも来ているのだろうか) とは言え、あれぐらいのシャーマンが相手ならば負けるべくもない。心配する程でもないだろう。 そう。皆それ位の力は持っているのだ。 葉は言わずもがな。ホロホロも、竜も、リゼルグも――― ――――― は ? 足がぴたりと止まる。 それに追い打ちをかけるように、鼓動が徐々に早くなる。 (………いや) 蓮は嫌な想像を振り切るように、かぶりを振った。 大丈夫。大丈夫だ。 だって今のあいつには、他の奴がついている。 あれぐらいの敵、俺が行かなくたって。 俺が…守らなくたって、 ――――どくん でも 今、彼女は一人で たった一人で、部屋にいる筈で そこにあのシャーマンたちが来たら ――――どくん 大丈夫大丈夫大丈夫そう言い聞かせて平静を保とうとする、嗚呼なのにどうして 『楽になれんのは、たぶん……自分の心が見えないからだと思うんよ』 『何がしたいのか、何をしたくなかったのか。それが、見えなくなっちまったから苦しいんだと思う』 『大事なのは、やるべきこと、じゃないんよ。自分が本当は何がやりたかったのか、それが大事なんだ』 『―――なあ、蓮。お前は、』 お前はほんとは、何をやりたかったんだ? 背を向ける直前聞いた葉の言葉。 何故こんな時に思い出してしまうのだろう。 どうして、こんな時に。 これではまるで、 ――――どくん 心臓が、一際大きく鳴って。 嫌な想像は止まらない。 どんどん膨らんでいく。 つい先日の記憶が脳裏を過ぎる。 彼女の首の痣の原因となった―――あの光景を。 俺は―――― (俺が、やりたかったのは…) 気付いたら、走り出していた。 薄暗い廊下。 それぞれの扉の向こうから、寝ている気配だけが漂うそこを、蓮は駆け抜ける。 彼女の部屋へは既に行った。 だがノックしても返答はなく、それどころか中にいる気配すらなくて。 ますます嫌な予感が大きくなる。 もはや誤魔化しようもないくらいに、焦りだけがじわじわと意識を侵食して。 (…、どこにいるんだッ…) 本館はもうすべて捜し尽くした。けれど彼女の姿を見つけることは出来なくて。 自然と蓮の足は、残る大浴場の方へと向いていた。 もしかしたら、寝苦しくて風呂へ行っただけかもしれない。 はオラクルベルを持っていない。だから目を付けられていないかもしれない。 今この瞬間も、ただ湯に浸かっているだけなのかもしれない。 ――――そうだったなら、どんなに良いだろう。 もし何もなかった時の、顔を合わせたときの気まずさや、居たたまれなさなんて、少しも思い浮かばなかった。 ただ自分の予感が当たらないことだけを、蓮はひたすら祈っていた。 そして―――― 「…!?」 蓮は、ようやく見つけた。目当ての姿を。 本館と浴場を繋ぐ渡り廊下の、本館に近い場所で。 開け放された扉の向こう、彼女はただ、佇んでいた。 浴衣が風になびく。風呂に入った後なのだろうか。髪が若干濡れている。 そんなの背中を目にして、蓮はホッと安堵した。 何もなかったのだ。無事だった。全身の強張りがとけていく。 ―――その時、小さな悲鳴を耳にした。 ハッと蓮は顔を上げる。 その視線の先で――――が、ぺたんと床に座り込んでしまった。 まるで、力が抜けて立てなくなってしまったように。 その肩が微かに震えている。 そして、その向こうに。 蓮は、確かに見た。 ――――もう一人の自分の姿を。 一瞬訳がわからなかった。 だって自分は今ここにいるのだ。 なのにの凝視する先には、いつもの拳法着を着た己が、確かに立っていて。 そしてその顔は、 柔らかく笑っていた。 「…ッ」 それを確認した瞬間、全身がゾッと総毛だった。 おぞましいものを、理解しがたいものを見た時のように。 コレハ ナンダ ? そのぴんと張られた緊張感の中で、 小さな小さな声が、 「…や、だ…、ごめんなさいッ、ごめんなさい…!」 泣き声、 ―――――――自分の中で、何かが弾けた。 |